【第4回】 地域、世代をこえて 多彩な表現を通じ伝承の未来を創る

「会員インタビュー」連載第4回のゲストは、富岡町3・11を語る会 代表の青木淑子さんです。青木さんは、3.11メモリアルネットワークの理事を務められています。

今回のインタビューでは、青木さんの教員時代、富岡町との出会いから、「語り人」の活動を立ち上げた経緯、未来に向けた取り組みなど、幅広くお話を伺いました。

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青木 淑子(あおき よしこ)

東京都出身、福島県富岡町在住
1970〜2008年、福島県内の県立高校で国語科教員として教鞭をとる。東日本大震災後は、富岡高校校長時代から深く関わった富岡町を中心に被災者支援を行い、2015年には富岡町3・11を語る会を設立、語り人(べ)活動や町民劇に取り組む。

教員生活の最後に、郡山から浜通りへ

 青木先生は、東京ご出身なんですね。福島に来られた背景を教えてください。

青木さん) 東京で生まれ育ってたんですけど、高校1年生の時に父親の仕事で郡山に引っ越し、福島の大学を出て、そのまま福島県の教員になりました。15歳ぐらいからずっといるので、自分では福島人だと思ってます。

青木さん) 就職してからもずっと郡山地区の学校だったのですが、教員生活の最後の4年間は「富岡高校」の校長として過ごしました。
同じ福島県内でも私は中通りにずっといたので、浜通りっていうのはすごい遠い存在で。海があって、冬も雪が降らないで、お魚が美味しくて…良いとこだとは聞いていたんだけど、実際に来てみて、「ああ、本当に海がある」って。

 なるほど。浜通りの魅力ですね。

青木さん) 校長をしていると、辛いことや苦しいこともあるんだけど、そういう時に、海を見て癒される。そういうことがいっぱいありましたね。そして、ここで退職したんです。

 

震災後はビッグパレットで支援活動

青木さん) 退職後も富岡に残って仕事ができればと思っていたんですが、尊敬する先輩に呼ばれて、郡山に帰りました。

 では、震災時は郡山に。

青木さん) はい。郡山に戻って最初の頃は特別養護老人ホームの園長をしていて、1年半後にデイサービスを立ち上げ、所長をしていたんです。
2011年3月11日は、その施設で震災にあいました。

 郡山も地震が大きかったですよね。

青木さん) はい。デイサービスは最新の耐震工事もしていたので大丈夫でしたが、市役所などの公共の施設は全部壊れましたし、県立高校なんかも、耐震工事をしていなかったので、めちゃめちゃになったんです。

青木さん) 私がいたデイサービスは、住宅街のど真ん中にあったんですが、道路がひび割れて、ガス管が露出していました。のちに「ホットスポット」と呼ばれる、放射能がたくさん降った場所です。
利用者さんを送ろうとしたら、家族が避難して居なかったり、家が壊れていたり。そんなこんなで、その日の夜20時半くらいに、ようやく最後の方を送り届けることができました。

 デイサービスセンターはその後も続けられたんですか。

青木さん) 10日間くらいお休みにしました。そうしているうちに、3月16日に、富岡町が郡山の「ビックパレット」に避難してきたんです。なんとも言えない縁を感じました。

 では、そのあとはそのビックパレットで支援をされていたのですか。

青木さん) はい、1週間くらい通いました。そのうちに、デイサービスが再開して、避難している富岡の方たちが施設の向かいのマンションにもたくさん入られたんです。偶然だったと思うんですけど。あの時は、毎日12時になると富岡町民歌を歌ったりしました。涙しか出ない状況でしたね。

 避難された方々にとっては、そういう場があって良かったですね。

青木さん) 私に何ができるか考えたときに、ずっと演劇をやっていたので朗読ができると。ちょうどミニFMが開局されて、週1回、木曜日の夜に詩や新聞記事を読む番組を放送しました。それを、ビッグパレットの避難所が閉所する8月まで続けていました。

 

「おだがいさまセンター」から語り人の活動が始まる

 閉所した後はどうされていたんですか?

青木さん) 避難した人たちはみなし仮設に入りバラバラになってしまう。その時に、被災した富岡や双葉郡の人たちの生活支援を目的に、社会福祉協議会の運営で、「おだがいさまセンター」が立ち上がったんです。

青木さん) 福島大学の天野さんに声をかけてもらい、私はデイサービスを辞めて、2012年4月におだがいさまセンターのアドバイザーになりました。

 語り人の事業にはどうつながったのでしょうか。

青木さん) 2012年末頃から、「語り部の活動はしっかりやらないとダメだよね」という話をし始めて、2013年にはセンターの事業の柱に据えて、語りたい人を公募したんです。そのうちどんどん依頼が増えてきて、専念しないと回らなくなり、2015年に独立しました。

 それが「富岡町3・11を語る会」ですね。語る会さんでは、「かたりべ」を「語り人」と書かれますよね。それはなぜでしょうか。

青木さん) 最初は普通に「語り部」と書いていたんですが、「昔話を話す人みたいで混乱する」と言われて。宮城や岩手もそうだと思いますが、福島でも昔話を語る人たちを「語り部」って言うんですよね。

 なるほど。では、区別するために。

青木さん) はい。私たちは語る人だから、語る「人」と書いて、「かたりべ」と読ませようと。「かたりびと」と呼ばれてしまうんですが(笑)。

 確かに、語り部は一人の人生を切り口に、いろんなことを考えることだと思います。読めるかという問題はあるかもしれませんが、納得感がありますし、こういう表現が浸透していくのかもしれませんね。

 

18人の富岡町民が集まる

青木さん) 富岡町民に限定して募集したのですが、18人の方が応募してくれたんです。おだがいさまセンターのあった郡山近郊の人たち、いわきや喜多方、福島市に避難してた人たちも、「俺も入りたいんだけど」と、連絡をくれました。

 バラバラに避難されていた先から集まられたんですね。

青木さん) はい。震災直後はいろんな感情がこみ上げて、涙が出て話せなかったけど、徐々に、何とか話せるようになっていた方々です。当時のこと、今の暮らし、避難の経路、悲しかったこと、うれしかったこと・・・話し始めると止まらないんです。一人が2時間くらいしゃべったりするわけです。

 とめどないですよね。

青木さん) そう。でも、富岡に来る人たちがお話を聞ける時間は、1時間とか30分とかなので、ルールを作らなければと考えました。なので、研修をしたんですね。2015年4月から始めて、3か月間。

 伝え方の研修ですか。

青木さん) みんなで、お互いの話をとりあえず全部聞く。それで、感想を話してもらうと、他の人には「長い」とか「同じこと何回も言ってる」とか言うんです。

 客観的に聞いてみると、よくわかりますよね(笑)

青木さん) そうそう(笑)それから、まとめるための文章書きをしました。そうすると、「こんな経験をしたのに忘れてるな」という発見があったんですね。その発見がすごく大事で。

青木さん) 忘れてはいけないんです。自分の人生をこんなにぐちゃぐちゃにしたものを、自分がこんなところで暮らしていなければならない理由を。それで、「やっぱり語り人は必要だよね」と確認し合ったんです。

 研修を通じて結束力が高まったんですね。

青木さん) だから皆まじめに書くんですが、長いので、申し訳ないけど削らせてもらって。1つ目の約束は、「20分でしゃべること」。

 2時間を20分に!大変です。

青木さん) テーマを決めたんです。「牛との別れ」「孫との暮らし」「逃げる時に感じた生活の知恵」とか。そしたらみんな自分の持ち味が出てきて。

 なるほど。

青木さん) 1時間で3人が話したりすると、最初の人が少し長くなると、次の人があおりを食うんです。でも、1年くらい経った頃から、「先生、今日は何分?」と時間を気にしてくれるようになって、ちゃんと時間を守るようになりました。

 

生きていくための語りと約束

 伝える上でのルールは大切ですよね。

青木さん) 必要だと思います。2つ目の約束は、「行政批判をしないこと」。これは、結構反発がありましたね。

 ありそうです。

青木さん) でも、私たちは人に聞いてもらうために話しているんだから、聞いてくれる人の気持ちを考えましょうって。何であの人があんな暮らしをしなければならないのか。孫と離れて、9坪の隣の音がバンバン聞こえるような場所で、夜は眠れない。孫とたまに会うと、「じいちゃんいつ帰るの?」と言われる。
そういう現状を伝えたら、みんな絶対、心の中に思うことはあるはずなんです。

青木さん) 怒鳴りたい気持ちも分かる。みんな「何で」って思ってるわけだから。だけど、実際に怒鳴ってもしょうがないし、土下座してもらったからって戻れるわけじゃない。自分の人間性を失わないためにも大事なことです。

 建設的に議論して歩んでいくために、すごく大事なことですね。

青木さん) 聞いてくださった方と、一緒に考えていく。それがすごく大事で。泣いてもいいけれど、苦労の押し売りはしないと約束しました。聞いてくれる人は、話し終わった後に手を握って「頑張ってね」って言ってくれるんですよ。語り部さんは、その言葉で、明日もまた生きていける。

 書くことも、話すことも、そうした言葉をかけてもらったことも、生きてく上で必要だったんだなって、僕も、今でも思います。

青木さん) 共感を持って聞いてくれるって、すごく大事なことですよね。語っていていいんだな、生きてていいんだなって思える。一番元気をもらっているのは、語り人さん自身かもしれないですね。

 伝えることで、結果的に自分に返ってきているんですね。

青木さん) 絶対に返ってきていると思います。だから、皆語り人をやめないのだと思います。年取ってきてやめることはありますけど、登録はしておいてくれって言ってくれるので、残しています。

 

地域と世代をこえた挑戦

 今、登録されている語り人さんは何人いらっしゃるんですか。

青木さん) 23名です。

 新しく始めたいという方はいらっしゃるんでしょうか。

青木さん) いないの。だから困っていて。それが一番の課題です。

富岡町3・11を語る会事務所前のチラシラック。隔月で発行している「語り人通信」の最新号、バックナンバーとともに、「語り人募集」のチラシも設置されている。

青木さん) 体験していなくていいと思うんですよ。富岡町民と限定していましたが、2020年度からは「富岡を語りたい人」ということで募集しようと思っています。そうしないと、広がらない。
ふたば未来学園の生徒でも、たまに「語り人活動をしたい」という子もいるので、そういう子たちを育てていきたいと思っています。でも、被災地出身でないことに引け目を感じてしまったりするんですよね。

 富岡の人たちにどう思われるかも気になると思います。

青木さん) すごい気になっている。でも、今、うちの語り部さんたちは70歳くらいなので、今バトンタッチしないとつながらないんですよ。

 自分が体験したことではなくても、人の思いを継いでいけると思います。

青木さん) はい。その路線の仲間を増やしたいんです。うちの団体にも若手の語り人がいるんですが、やっぱり一人なんですよね。

 一人で背負うのではなくて、活動する地域が違ってもつながって、「あの人が頑張ってるから自分も!」と感じられることが、これから先の伝承を支えるのではないかと思っています。

青木さん) ぜひ3.11メモリアルネットワークでつながって、頑張ってほしいと思っています。うちの若手も、震災後ビッグパレットに避難して、まだ家がボロボロのままで残っているんですが、それをしゃべれない。

 僕も、はじめはうまく話せずに、苦しみました。毎日日記を書いたり、表現の練習も積み重ねて、ようやく今話せるようになってきたんです。気張り過ぎると辛くなりますが、思いを大切に、一緒に先を見れる仲間がいれば、成長しながら、続けていけると思いますし、それがネットワークの意義だと思います。

青木さん) 絶対、必要なことだと思います。富岡町3・11を語る会も、2020年度のテーマは「人材育成」、バトンタッチをどうするかということなんです。

 世代間交流の取り組みは、どんなことをされているんですか?

青木さん) 今までは、小学生に語り人のお話を聞いてもらうくらいだったんですね。でも、ちゃんと若い子たちとぶつかろうと思って。
昨年は、郡山地区の高校の新聞部と放送部に声をかけて、30人くらいの生徒が集まりました。どの学校も「双葉郡富岡町のことを忘れていませんか?」という特集記事を作ってくれて。

2020年2月に開催された「世代間交流会 地域をこえて 世代をこえて」のチラシ。

青木さん) 今年は演劇部を呼んで、6人くらいのグループに語り人さんが一人ずつ付いてお話をする。それをもとに、2時間で演劇を作って、東京から招いた演出家に講評してもらうんです。語り人さんにしてみれば、高校生が自分の話をどう演劇にしてくれるかで、ちゃんと伝わっているかどうかがわかる。言った以上のことが伝わっていると思う人もいるかもしれません。

 これ自体が語り継ぐ活動ですね。本質的です。

青木さん) 来年度は、会津の高校にも声をかけて、さらに広げていきたいと思っています。

 

インタビュー後記

会員インタビュー連載4回目のゲストは、「富岡町3・11を語る会」代表の青木淑子先生でした。青木先生は、3.11メモリアルネットワーク理事も務められています。

僕自身、福島県富岡町に行くのは2回目で、何度も足を運ぶべき地域だと感じながら訪れました。
青木先生のお話を聞くのは初めてでしたが、熱いお話を聞くことができて感動しました。
皆様はいかがだったでしょうか?

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震災直後、以前働いていた富岡町から避難してきた方々に出会ったことから、縁が繋がり、演劇などの支援を通して語り人(かたりべ)へと繋がっていく。「人とのつながり」を強く感じたインタビューになりました。

特に印象的だったのが、「聞いてくださった方と一緒に考えていくこと」が大事だということ。
僕も強く共感しました。

そのために、語る内容を精査して磨き上げる研修を行い、語り人として活動していく中で自身も元気になっていく。

それは、これから先の震災伝承に、非常に重要になってくることなのではないかと思います。

教訓を活かすことは、消費されることではなく、紡がれていくことだと思います。
そのためには、語り人が元気であるのがとても重要です。元気だからこそ継続していける。
これが震災伝承の核だと思いました。

青木先生は、世代を超えた震災伝承の難しさ、担い手の確保という課題についても言及されていました。

「体験していなくても語ることができる。」これは、震災伝承に携わる方々からよく聞くことです。
体験していかなければ語れないのではなく、体験していないからこそ語っていく必要がある。このような認識でなければ、震災伝承は難しいのかもしれません。
僕自身も、次世代への伝承は大きな課題だと再認識しました。

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青木先生には貴重なお時間をいただき感謝しております。

この記事が、多くの方々の学びや行動の一歩につながれば幸いです。

次回もお楽しみに!!

インタビュー後。手に持っているのは、語り人さんたちが作ったDVD。

《information》
富岡町3・11を語る会では、先ごろDVD『伝えます 富岡町』を制作し、新型コロナウイルスの影響でプログラムをキャンセルした人にお送りしています。
「復興伝えるDVD作成 NPO『富岡町3・11を語る会』」(福島民報、5/21)

 

インタビューアー / 永沼 悠斗(ながぬま ゆうと)

3.11メモリアルネットワーク 若者プロジェクトのメンバー。
宮城県石巻出身で、3.11当時は高校生。現在は、大川伝承の会で語り部を行うほか、「失われた街」模型復元プロジェクト記憶の街ワークショップin大川地区 実行委員も務める。
趣味は、読書(東野圭吾好き)、ウィンタースポーツ、お茶(日本茶)。

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第5回 若生彩さん(宮城県仙台市)

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第3回 菊池のどかさん(岩手県釜石市)