【第3回】一人ひとりの背景を見つめて 釜石の地で伝える仕事

「会員インタビュー」連載第3回のゲストは、いのちをつなぐ未来館の菊池のどかさんです。
2019年6月に3.11メモリアルネットワークの全体会を釜石で実施した際には、鵜住居(うのすまい)の地域を案内していただき、参加した会員の方々も大変勉強になったと、とても好評でした。

今回のインタビューでは、菊池さんの子ども時代から「いのちをつなぐ未来館」で働く現在までの経緯や思い、大切にしていることなどについて、お話を伺いました。

菊池 のどか(きくち のどか)

岩手県釜石市出身・在住
2011年の東日本大震災発災当時は、甚大な津波被害を受けた鵜住居地区にある釜石東中学校の3年生だった。その後、盛岡の大学に進学したが、卒業後はふるさとに戻り、2019年4月に株式会社かまいしDMCに入社。「いのちをつなぐ未来館」のスタッフとして、館内や周辺地域で自身の震災の経験を伝えるほか、地域の防災学習にも携わっている。

海と山で育つ

 菊池さんの、震災前の暮らしをお伺いしてもいいですか?

菊池さん) 生まれも育ちも釜石です。遠野市に近い橋野(はしの)という山あいの地域の出身で、幼少期はほとんど山で遊んでいました。
父が根浜(ねばま)という沿岸の地区の出身だったので、夏休みには海でも遊んでいました。「海と山のハーフ」といったところです。

 学校はどちらに通っていたんですか?

菊池さん) 橋野小中学校という、小学校と中学校が一緒になった学校でした。小学校5年生のときに、橋野中学校が閉校してしまって、中学校1年生からは鵜住居の釜石東中学校にスクールバスで片道30分かけて通うようになりました。

 広い学区ですね。例えば、半島からくる子たちと内陸の子たちでは、災害に対する意識も結構違ったんですか?

菊池さん) 橋野で暮らす私たちにとっては、災害といえば台風や大雨という感覚でしたね。津波については、中学校で鵜住居に来てから初めて触れました。もともと海の近くに住んでいる子たちとはまったく意識が違ったのだと思います。

 

子どもの頃には気づかなかった釜石の魅力

3.11の津波の被害により、街は大きく変わった。かつて菊池さんたちが通った釜石東中や鵜住居小があった場所に、震災後「釜石鵜住居復興スタジアム」が建設され、2019年秋に開催されたラグビーW杯ではたくさんの人が訪れた。写真左奥の仮設スタンドは、現在は撤去されている。

菊池さん) 中学校の頃は、実は釜石って魅力のない街だと思っていました。私が生まれたときには新日鉄も衰退していて、「ラグビーの町」って言うけど、実際に強いラグビー選手も見たことがなかったので。漁業がさかんだと言っても、魚だって海に泳いでいるものだから、別に釜石に限ったことじゃないし。大人から聞く言葉もネガティブで、「魅力がない町に生まれちゃったんだ」と思い込んでいました。

 もうちょっと都会がいいなぁと思ったり。

菊池さん) いえ、田舎でもいいけど、誇れるものがある地域がうらやましいなって思いました。特に夢も希望もなく、ただ「ここ(釜石)で粛々と生きるしかない」みたいな感覚でした。

菊池さん) ただ、震災があって、高校、大学…と成長するにつれて、地域の結びつきの強さや、周囲の人と助け合える釜石の環境は、実はすごく幸せなものだったということに気付きました。地域の人とお互いに「ここで生きている人、生きてく人」という認識で接することができるので。

 地域に見守られている、という感じですね。

菊池さん) 大学進学で一旦釜石を離れた際にも、なんだかんだ、帰る理由がある。当時はお祭りやお花見に呼ばれて、盛岡から2か月に1回は帰省していました。

 子どもの頃は気がつかなかった魅力があったんですね。

 

肩の力を抜いて話せる場所

 大学の頃は、震災伝承活動はしていたんですか?

菊池さん) 大学の頃は、地元に遊びにきた友達を案内するくらいで、表立った活動はしていませんでした。釜石を離れたこともあり、なぜか震災の経験を忘れてしまっていた時期がありました。
ただ、実は、忘れる前に経験を書きとめていました。阪神・淡路大震災で被災した方から、「いつか絶対忘れるから、書いておけ」って言われて、「こんなこと忘れるわけないじゃん」と思いながら、渋々経験を文字にしていたんです。そしたら本当に忘れちゃって。

 書いておいてよかったですよね。

菊池さん) その時の音とか匂いとか、五感で感じたことは覚えているけど、うまく言葉にできなかった時期がありました。その頃に全部やめたんです。誰が来ても言わなくなりました。

 そうだったんですね。その後、話すようになったのは、何かきっかけあったんですか?

菊池さん) 決定的な出来事があったわけではないのですが、中学校2年生の頃から、兵庫県の舞子高校という学校と交流があり、大学でも阪神・淡路大震災の被災地の方とお話しする機会があって。

菊池さん) 「語り継ぐ!」とか「語る!」という強い感じではなく、もっとラフな、ただ話すだけの場所をつくってくれていて。「話さなくてもいいから来て」と言われて行ってみたら、だんだん元気になっていった感じです。

 「伝えなければならない」というような使命感は重荷でもありますが、一方で純粋な人と人とのつながり、関係性は支えになりますね。

菊池さん) そうですね。

 

「釜石の奇跡」と葛藤

菊池さん) 高校生の頃は、ほとんどメディアの方に向けてしか、震災のことを話していませんでした。
中学校の頃に「釜石の奇跡」として3.11当時の避難行動が注目されたことから取材が殺到して、学校がすべてお断りしていた時期があるんです。その反動で、中学を卒業したら私たちに取材が多くくるようになって。
中学校時代は心のケアをしてもらえたけど、高校では何もないまま、ただひたすら語るという状態が続いていました。

 つらいですね。

菊池さん) その当時は、せっかく遠くから取材にきてくれているのだから、話さないと申し訳ないなという気持ちで。自分では無理しているという認識はありませんでしたが、「何か話さないと」と思いながらやっていた部分もありました。

 誰も経験したことのない出来事だから、メディアも発信しなければと思い取材をしているのだと思いますが、しんどく感じることもありますよね。

菊池さん) そうですね。ただ、必死に話しても結局、美談になってしまうというか、決まった話のパターンにまとめられてしまうことが、何度かありました。
「それだったら、自分が話す意味はないんじゃないかな」と思って気持ちがダウンしてしまったのが、震災の経験を話すのをやめたのと同じ時期でした。

 自分がいくら真剣に事実を伝えようとしても、結局決められた文脈に乗せられてしまうのは、やるせないですよね。

菊池さん) そういうことが重なるなかで、「震災で同じ思いをした人は、どう思ってるんだろう」「こいつ嘘言ってる、って思われているのかな」と、すごく考えるようになりました。釜石での出来事をまったく知らない人は文字通り理解されるだろうし、よく知っている人は「違う」と思って読まれるだろうし、申し訳ないなって。
そういうこともあって、「いのちをつなぐ未来館」で、来てくれた人に直接お話するという道を選びました。

 

震災伝承を仕事にする

 「いのちをつなぐ未来館」で働くことを選んだのは、大学の頃に、地域行事等でよく釜石に帰ってきていたことの延長だったんでしょうか。

菊池さん) そうですね。大学に入った時から、卒業後地元に帰ってこようとは思っていました。林業分野の就職も考えていたのですが、大学4年の12月に「いのちをつなぐ未来館」の求人を見つけて、応募しました。

「いのちをつなぐ未来館」は2019年3月23日にオープンした。三陸鉄道リアス線「鵜住居駅」すぐ。

「いのちをつなぐ未来館」館内には、通常の展示のほかに、地域の小・中学生の防災などの取り組みが展示されるコーナーもあり、定期的に更新されている。(写真は2019年6月に撮影したもの)

菊池さん) 町の住民の方も、観光や震災のことを学びたい方も他地域から来る施設で、町の人も見守ってくれる環境なので、ここなら事実を伝えられるんじゃないかと思って就職しました。

 自分の経験した事実、町としての事実、そして震災前からの取り組みも含めて、釜石のことを伝えらえられると思った。その結果が、この施設への就職だったんですね。

菊池さん) そうですね。地域の方もよく来られて、お話しする機会があります。震災の話をされることもあるので、それはずっと聞くようにはしていますね。逆に話したくないときは、違う話をされます。

 信頼があるから話せることも多いですよね。

菊池さん) そうですね。あとは、来館した方から名乗る前に、お名前は聞かないようにしています。よく知らない人に対しての方が話しやすいという方もいるので、あまり深堀りせずにお話を聞いてほしいという方には、個人情報は聞かずにおしゃべりをしますね。

 こういう圧倒的に開かれている場なので、色んな人がいらっしゃるし、この辺の方だったのかなとか、気になってしまう気持ちはあると思うのですが…

菊池さん) なります(笑) ここに住んでたのかな…と思うことはありますが、すぐに聞かなくとも、また来てくれたり、そのうちにお話ししてくれるようになったらいいかなと思います。

 地域にとって大切な場ですね。

 

一人の人として向き合う

 菊池さんが、震災のことを伝える上で大事にしていることはどんなことですか?

菊池さん) 話術に自信があるわけではないので、その分、一対一の関係を大切に、一人の「人」として接するようにしています。例えば、来館された方が役職者だとすると、災害が怒った時、仕事での立場上助けなければならない人もたくさんいる。一方で、助けたい家族もいるのだろうな、ということを想像して話をします。

 来館された方が何を知りたいかとか、どういう立場にいるのかを踏まえたうえで接するのは、簡単なことではないですよね。

菊池さん) 素の人間として、本当はどこの町にいたくて、誰を助けたいのかということをお話ししながらご案内しています。

 その人の本当の思いを引き出した上で、震災のことを伝えているんですね。

菊池さん) 最終的に責任を持たければならない立場の人はいますが、その人ひとりで頑張るんじゃなくて、周りの人もみんなで頑張れるような意識づけをお手伝いできればいいなと感じています。

 それすごくわかります。その人の何かの琴線に引っかかって、その人に明日起こるかもしれない災害で、少しでも助けになればいいなと思って、僕も語り部をしています。

菊池さん) そうですね。一回会っただけでその人を変えられるとは思っていませんが、何かのきっかけになればいいなと思って、話しています。

 

インタビュー後記

会員インタビュー連載第3回のゲストは、「いのちをつなぐ未来館」の菊池のどかさんでした。
同世代ののどかさんへのインタビュー、どんなお話が聞けるか、楽しみにしながら釜石へ向かいました!

以前、3.11メモリアルネットワークの全体会開催に際し、視察ツアーをコーディネートしていただいたので、僕がのどかさんにお話を聞くのは2回目でした。

2019年6月に、3.11メモリアルネットワークの会員を案内していただいたときの様子。参加者の質問にも、丁寧に、的確に答えてくれたのが印象的だった。

今回は、なぜのどかさんは震災伝承を仕事にされたのか、活動する上で大事にしていることなどを伺うことができました。

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「釜石の奇跡」と言えば、ご存知の方は多くいらっしゃると思います。
今回インタビューをさせていただいたのどかさんは、まさにその体験者のお一人です。

伝え方などに悩みながらも、体験したことを自分の言葉で直接人に伝えていきたいという気持ちに、僕もとても共感しました。

インタビュー後、鵜住居駅前にて。伝統芸能の「虎舞」が描かれた巨大なラグビーボールのオブジェの背景に、鵜住居復興スタジアムが見える。

記事の中では触れられなかったのですが、印象的なお話がありました。

それは「自然界の海と山の関係のように、海側に住んでいる人も、山側に住んでいる人も、互いに支えあって生きていくことが大事」というお話です。子どもの頃、地域の方から教わったのだそうです。
のどかさんは「離れていても、いざという時に助け合える関係」とも、話していました。

「釜石の奇跡」は、そうした地域愛が釜石の人たちの内面に積み重なっていたからこそ為しえたことで、決して「奇跡」ではなく、ある意味「必然」だったのではないか。インタビューを通して、そう感じました。

3.11後、様々な地域間で災害協定が結ばれるなど、支え合える関係や思いやりの大切さは、東日本大震災の経験から学ぶことのできる大きな教訓だと思います。
その教訓を生かせるように、離れていても血の通った人と人との関係性のもと、支え合う関係を大切にしていきたいと感じました。

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人と会うことが難しいご時世ですが、状況に応じて工夫しながら、今後もインタビュー企画をどんどんと進めていきたいと思います。
魅力的なお話を伝えられるように頑張っていきたいと思います!!
ぜひ、ご感想おまちしております。

次回もお楽しみに。

 

インタビューアー / 永沼 悠斗(ながぬま ゆうと)

3.11メモリアルネットワーク 若者プロジェクトのメンバー。
宮城県石巻出身で、3.11当時は高校生。現在は、大川伝承の会で語り部を行うほか、「失われた街」模型復元プロジェクト記憶の街ワークショップin大川地区 実行委員も務める。
趣味は、読書(東野圭吾好き)、ウィンタースポーツ、お茶(日本茶)。