【第2回】それぞれの”角度”で向き合う 立体的な震災伝承
「会員インタビュー」連載第2回のゲストは、大川伝承の会 共同代表の佐藤敏郎さんです。
3.11メモリアルネットワークでは、発足時に理事を務めたほか、「若者プロジェクト」のリーダーとして、立ち上げ当初から若者を見守ってきました。
今回のインタビューでは、大川小学校での伝承活動や、日頃感じていること、「若者プロジェクト」への思いなどについて、お話を伺いました。
佐藤 敏郎(さとう としろう)
宮城県石巻市出身・在住
1963年生まれ。「大川伝承の会」共同代表。
東日本大震災当時は女川町で中学校教諭として国語を教えていた。
石巻市立大川小学校6年生だった次女が津波で犠牲になった。
震災後には、中学校で防災担当を務めるかたわら、大川小学校で起きたことの検証、伝承、そして想いを多くの人と共有する目的で「小さな意味を考える会」を立ち上げ、全国で講演を行なってきた。
2015年3月に教員を退職し、その後「大川伝承の会」を立ち上げ、ラジオのパーソナリティーも務めるなど、多彩な活動を行っている。
大川伝承の会について
はじめに、大川伝承の会を立ち上げた経緯を教えてください。
佐藤さん) 大川で生まれ育って、教員をしていて、前例のない3.11の震災があって、大川小学校で娘が亡くなって・・・その現実にどう向き合うか考えたときに、アプローチの一つが”伝承”という活動でした。
震災後、「大川小を案内してほしい」という依頼が多くて、なかなか対応しきれなくなって、「じゃあ、定期的にやってみようか」と手探りで始めたら、今ではだいぶ定着して、そこにスケジュールを合わせて来てくれる方が増えてきた。
案内されるときは、どんなお話をしているんですか?
佐藤さん) もちろん、多くの人が大川小学校のことを知りたくて来てくれるんだけど、大川の海のことや、「良葉東部(イーハトーブ)」のこと、長面の「はまなすカフェ」の牡蠣が美味しいとか、地域のお祭りのこともお話ししています。大川の人は、「震災前、ここにはこんな町があった」という思い出を大事にしている感覚があるよね。
そうですね。「大川小学校」っていうと、悲惨なイメージが強調されがちですけど、本当はそれだけではないですよね。
佐藤さん) 学校で子どもが亡くなる、先生も亡くなる、というセンセーショナルな話題が一人歩きしているけど、それは大川の一つの側面でしかない。「大きな川」っていうくらいだから、もっといろんな流れが合わさっていくべきだなと。
いろんな人の考え方や、価値観が合わさって「大きな川」になっていくということですね。
知ってほしい、震災への向き合い方には”角度”がある
佐藤さん) 大川小学校のことを伝えるのは、簡単ではないよね。学校であんなに子どもたちが亡くなったことを、どう言葉にしていいのか、何を伝えるべきか、すごく迷う。でも、おれは知ってほしい。ただ「大変だ」「悲惨だ」と言うだけじゃなくて、まずは知って、向き合ってほしいと思う。
向き合うというのは、”角度”なんだよね。正面から、斜めから、あるいは後ろを向くことも一つの角度。
伝承活動がある一方で、地域で美味しいものをつくっている人もいたりする。それも同時に伝えていければ良いですよね。
佐藤さん) 「あの大川小学校」という言われ方もするし、今の大川を訪れた人に「さみしいところですね」と言われることもあるけど、大川で生まれ育った者として、「いやいや、ここには町があったんですよ」と。そういうことを、すこしでも伝え続けていければなって思うんだよね。
佐藤さん) 津波の犠牲者が多かったところだから、津波避難の仕方とか防災とかを学ぶ、考える場所になるというのも一つだけど、もっと「ふるさと」「まちづくり」とか「親子」「家族」とか、そういうテーマも深められる場所なんじゃないか、と最近思っています。
たしかに。「大川小学校」の話題が一人歩きしてしまっているけど、一方で、地元の方がつくった「牡蠣のソース」が美味しいとか、地域ではいろんなことが同時並行で進んでいるんですよね。
佐藤さん) そうだよね。
あの日まで/あの日/あの日からのいろんなこと
敏郎先生は、大川伝承の会で語り部をされているほかに、全国でもお話されていますよね。外で話すときと大川で話すときの、違いはありますか?
佐藤さん) 伝えたいことは同じだろうけど、実物があるかないかの違いかな・・・。
どちらにしても、「あの日のこと」だけのことを話すわけではない、といつも思ってる。おれは「あの日までのこと」を忘れたくないし、しっかり伝えたい。そして、9年も経つなかでの「あの日から今日のこと」も。
2020年2月、大川小学校で語り部ガイドをする佐藤さん。全国からたくさんの人が訪れる。この日のお客さんは2度目の訪問だった。
佐藤さん) あの日までのこの場所が、どういう風景で、どういう日常だったのかを伝えることができれば、「あの日に 何があったのか?」「あの日からの日々がどんなだったか?」も想像できるんじゃないかと思います。それをふまえて、これからのことを考える。どこに結びつくのか、つながるのか、自分自身も意識したいし、聞いている人にも考えてほしいなと。
敏郎先生のお話からは、いつも、未来を考えるためのきっかけやヒントをもらえるような感じがしていました。「あの日までのこと」「あの日のこと」「あの日からのこと」の3つを意識して伝えることで、イメージしやすくなっていたんですね。
考えること 未来を拓くこと
佐藤さん) 我々の現在っていうのはさ、過去の後悔とか悲しみ、あるいは失敗の上に成り立っているんですよね。だから、それは、未来につながる後悔や悲しみであってほしい。あれだけのことがあって、あれだけ悲しい、つらい思いをしたんだから、何にも変わらないのではおかしいなって、おれは思っていて。
そうですね。後悔や悲しみがあったからこその”願い”のような。
佐藤さん) そう、”願い”だよね。「変われ」っていうよりは、事実に向き合った先で「やっぱり変わらなくちゃ」とか「考えなくちゃ」となれば良いな、と思う。
大川小学校の校庭を案内するときに、いつも「未来を拓く」の話をするんだよね。あんな悲しいことが起きてしまったところに、あの言葉が残されていて、津波もそこは壊さなかった。それは、おれにとって大きな道しるべになったというか。
旧大川小学校の野外ステージに刻まれた、大川小学校の校歌のタイトル「未来を拓く」。かつて児童が描いたカラフルな絵は今も現地にのこされている。
佐藤さん) あの場所から「未来を拓く」ということは、あの事実、あの命に蓋をすることでも、目を背けることでもない。向き合ったその先に見えてくる”未来”なんだよね。そんな簡単に答えとか方向性は見えないかもしれないけど、考えること自体が”未来”なの。
向き合い続けた先に、「学校防災」をがんばるとか、「ふるさと」に寄り添う学校のあり方を考えるとか、それぞれの方向性が見えてくるのだと思います。いろんな”角度”で話し合っていけるようになると良いですよね。
「難しい」ということ自体を、伝える
佐藤さん) 東日本大震災の伝承は、「命がたくさん助かったこと」を伝えるのと「命がたくさん失われたこと」から伝えるという、大きく2種類があるけど、後者はちょっと難しい。「ここはたくさん人が亡くなったところなので、来てください」とは、なかなか言えない。
確かに、言いづらいことです。
佐藤さん) 難しいんだよね。でも、だから、最近は行政や教育委員会の人にも「その難しさこそが大事なんだ」って、伝えるようにしてる。
佐藤さん) 難しいよね、だけどやる、と。
世の中的には、「難しいから」「複雑だから」やらない、向き合わないっていう考え方もある。でも、難しくても、大事なことだったら、やんなきゃないんだよね。
今の言葉は、すごくしっくりきました。
佐藤さん) 大川小学校は「複雑だから」「つらいから」話をしないっていう人は多い。でも、難しいし、もめるかもしれないし、うまくいかないかもしれないけど、大事なことなんだから、やりましょうと。んで、うまくいかなかったら謝ればいい、やり直せばいいんだって思ってます。
それは、”失敗”じゃなくて、”経験”ですよね。
佐藤さん) そう。向き合うことで、すでに”未来”を向いているからね。
メディアとともに伝える
佐藤さん) 報道の人とも話しているんだけど、おれはもっともっと、言葉を吟味するというか、探すべきだなと思ってる。安易に定型の決まり文句で見出しや記事をつくっていては、だめなんじゃないかと。もちろん、報道もいろんな条件や制約があるから、難しいとは思うんだけど。
そうですね。地域のことや取り組みを多くの人に知ってもらうことができる一方で、表現や切り取られ方によっては、”違和感”を感じることもある。報道を通じて社会的な印象が形成されてしまうこともあるので、難しいなと思います。
佐藤さん) メディアの人も慣れてきて、こっちも「ようやくわかってきたなぁ」と思っていたら、担当が変わってまたイチから・・・とかね。
そういうところが難しいですよね。
佐藤さん) だから、最近は、気になることはメディアの人にすぐ言うようにしてる。文句ではなくて、「ここはもうちょっとこう書くべきじゃないか」とか「この表現はこういう風に受け取られるんじゃないか」といった意見。
取材を受けた当事者の側からすると、「この表現はちょっと・・・」っていうことはいっぱいあるじゃないですか。そこは分かってほしいなと。
それって、メディアの方も多分悩んでいるんですよね。
佐藤さん) そうそう。だから、役立ててもらえれば良いなと思って、こちらの意見も伝える。
お互いにそういう風に思えると良いですね。伝えるのは難しい、だからこそ一緒にやっていければ。
佐藤さん) 伝承する我々も、メディアとの共同作業の意識を持たないとだめだよね。
立体的につながる 3.11メモリアルネットワーク
僕は、敏郎先生から3.11メモリアルネットワークに誘ってもらったんですよね。「やってみたら」みたいな、軽いノリで入って、その1か月後くらいに始まったのが「若者トーク」でした。
2018年に開催された「若者トーク」の一場面。リーダーの佐藤さんとともに、インタビュアーの永沼くんが「若者伝承会議」の構想を発表した。
当初は、若手の語り部のメンバーは、案外、メディアを通してしかお互いのことを知らないような状況でした。そこから「若者プロジェクト」でつながることができて、自分にとっても、すごく刺激になっています。本当にざっくばらんに、自分たちの今の状況も含めて、あの日からのいろんなことを話し合うっていうのが、おもしろいなって。
佐藤さん) 例えばね、おれが震災当時勤めていた女川第一中学校は、子どもたちが女川一小と二小から上がってくるんだけど、同じ町内の一小と二小ですら、結構違っている。
確かに、そういうことはありますよね。
佐藤さん) 学年も地区も違う大川の子たち、さらに市を超えて、東松島や女川の子たちも一緒に活動するようになったことは、おれにとってもすごく新鮮で、視野を広げてさせてもらったなと。
2018年12月に名取市の「閖上の記憶」で開催された「若者トーク」の様子。
佐藤さん) 「震災伝承」とか「防災」とかはさ、ややもすると、大人の男性目線の話になりがちだよね。
なるほど。多様な立場からの視点で見ることも大事ですね。
佐藤さん) 「震災後、避難所で大人の手伝いをさせてもらえなかったのが悔しかった」「ここから出るなと言われた」と話す子もいれば、避難所から忍び出てみたら遺体があって、「ああ、だから大人は出るなと言ったんだ、と思った」と話す子もいる。大人は、「子どもだから」という理由で見せなかったり、させなかったりするけど、言えば分かったんだと思う。
震災があってもなくても、世の中には見たくないものや嫌なものが絶対にあって、目をつぶっても、目隠ししても、それはなくならない。子どもたちも、そういう現実をしっかりと見てたし、体験して、考えていたんだよね。
そういう体験を持った若手のメンバーが、つながったんですね。
佐藤さん) そうそう。コラボレーションだよね。融合して、化学変化が起きた。
最初は石巻で2、3人で始まって、前例がないので、何をどうすればいいか分からないですけど、やってみたら「あれもこれもできる」、そして「やってみたい」と。
「若者プロジェクト」のメンバーも、普段から遊ぶほど近くにいるわけではないんですけど、つながれて、今どうしてるかお互いに分かるようになったのは、すごくよかったなと。「一人じゃない感覚」が生まれたんです。
佐藤さん) みんなが認め合っていて、安心できる場所があると、一人じゃないって思えるよね。孤立しない。「これを言っちゃダメ」とか「こういうことを言え」とかではなく、言っても言わなくてもいい、思いをどんな言葉にしてもいい、という風な。
思いを言葉にできる場所は、若者だけでなくて、大人にも必要だよね。
3.11メモリアルネットワークの伝承シンポジウムポスター(左から第1回、第2回、第3回のもの)。新型コロナウイルスの影響で、残念ながら2020年3月21日に予定されていた第3回伝承シンポジウムは中止となったが、「つながろう ひろげよう」のテーマに込められた佐藤さんやプロジェクトメンバーの思いは、今後、別の形で発信されていく。
佐藤さん) 違いを認め合えること、「こんな人もいる」「そういう考えがある」という考え方はすごく大事だよね。大切な人が突然いなくなったり、家がなくなったりしたなかで、一人じゃない、自分だけじゃないって思えたりとか。
そうですよね。家族が無事だった人が、気を遣って話しづらくなってしまうということもありますが、若者同士ではそういうことは比較的少ないような気がします。
佐藤さん) 確かにそうだね。ただ、若者ならではで、「俺らが背負ってきたものはまだ軽いんだ」っていう子もいる。ずんつぁん、ばんつぁん(じいちゃん、ばあちゃん)たちは、3.11の前に、70も80年の人生を背負ってるわけさ。1960年のチリ地震津波の被害にあった人もいる。僕らが背負っているのはせいぜい10年くらいなんです、と。
生きてきた時間の長さはありますね。家族から話を聞いたりすることも含め、これから経験を積んでいく。
佐藤さん) でも、被害が軽い人は話しちゃいけないとか、思いを持ってるのに話しづらいということは、なくしていきたい。それは、これからの震災伝承のひとつのポイントでもあると思う。
「若者トーク」はさ、いろんな状況の若者が出ているよね。去年の8月に東京で「若者トーク」をしたとき、被災してない関東の学生たちも参加した。そのなかで「同じなんだよね」って発言があった。あの時、彼はたまたま宮城の海の近くにいて、私はたまたま東京にいた。それだけの違いだって。
2019年8月「若者トークinTOKYO」のポスターは、実は佐藤さんの手書き。
佐藤さん) そういう発見というか、気づきってすごいよね。「若者トーク」を通じて、みんながそういう気づきを共有できたのがよかったなと思っていて。当たり前だと言ったら、そうなんだけど。
そういう気づきが、次につながってきますね。
佐藤さん) そうそう。いま、縦横につながってきている感じがするよね。横にも縦にも、斜めにも広がっていく。
「若者プロジェクト」もそうですけど、3.11メモリアルネットワークでそれを体現していけたらいいなって思います。
佐藤さん) そうそう。大体、「若者プロジェクト」なのに、56歳が関わってるんだからね。元ヤング(笑)その時点ですでに”立体”なんだよね。誰だってみんな、昔は若者だったわけだから。
なるほど、だから共通点は皆ある(笑)
敏郎先生、今日はお話聞かせていただき、ありがとうございました!
インタビュー後記
2回目の「会員インタビュー」は、大川伝承の会 共同代表の佐藤敏郎さんにお話を伺いました。
実は、僕自身も大川伝承の会に所属していて、普段から語り部や若者プロジェクトでお世話になっています。
普段から話したり、敏郎先生のご自宅でお話を聞くこともあるのですが、改まってお話を伺ってみて、会話のなかで自然とイメージが湧いてくるような感覚があり、言葉を巧みに使われているなと感じました。
インタビューをするにあたり、何を聞こうか結構悩みましたが、「震災への向き合い方」や「何を伝えていくのか」は、読んでくださる方々との共通項ではないかと思います。
また、「震災への向き合い方には角度がある」と言葉にはハッとさせられました。
多様な考え方があることを知って認め合うことは、震災伝承に限らず、重要なことだと思います。
敏郎先生を中心に若者がつながり、「若者トーク」はこれまでに累計8回開催されています。そのなかで、まさに様々な”角度”が表現されてきました。
2017年3月末に石巻で3日連続開催された、記念すべき第1回目の「若者トーク」の様子。
若者たちが被災体験を絵本にする、紙芝居にする、研究する、語り部として伝承する。自身の被災体験への向き合い方の”角度”が違っていますが、思いは同じです。
ネットワークを通じてお互いにつながり、認知し合い、そしてそれぞれが言葉に思いを乗せて伝承しているということが大事なんだと、改めて感じました。
本文には掲載できなかったのですが、敏郎先生が次のようにお話しされていたのも、まさにそうだな、と心に残っています。
「『防災』一つとっても、例えば学校だけでも学者だけでもだめ。それが立体的に組み合わさらないと。
おれはよく”ハーモニー”っていう言葉を使うんだけど、ハモればいいと思うんだよね。
自分の音もちゃんと出して、周りの音も聴く。自分の音だけ出して、ほかの音潰したのでは”ハーモニー”にならない。」
毎回のインタビューで、宝物のような言葉に触れられるのは、僕にとっても素晴らしい経験で、有り難く感じています。
長い記事を読んでくださり、ありがとうございました!
皆さまからのご感想も、お待ちしております!
第3弾もお楽しみに!
インタビューアー / 永沼 悠斗(ながぬま ゆうと)
3.11メモリアルネットワーク 若者プロジェクトのメンバー。
宮城県石巻出身で、3.11当時は高校生。現在は、大川伝承の会で語り部を行うほか、「失われた街」模型復元プロジェクト記憶の街ワークショップin大川地区 実行委員も務める。
趣味は、読書(東野圭吾好き)、ウィンタースポーツ、お茶(日本茶)。