【第11回】育ててくれた地域で 語り部さんの思いを次世代につなぐ

「会員インタビュー」連載第11回目のゲストは、気仙沼市東日本大震災遺構・伝承館の熊谷心さんです。
熊谷さんは、階上地区まちづくり協議会「語り部部会」の事務局を担われ、また2021年4月からは伝承館の副館長として、継続的に気仙沼の震災伝承活動に携わっています。
今回のインタビューでは、地域への思い、次世代に伝承をつなぐ試みなどについて、お話を伺いました。

なお、今回も、新型コロナウイルス感染対策でマスクを着用してインタビューを実施しています。ご理解のほど、よろしくお願いいたします。

《この記事は約7分で読めます。》

熊谷 心(くまがい しん)

宮城県気仙沼市出身・在住
気仙沼向洋高校出身。地元の農協、森林組合勤務を経て、2018年からは階上まちづくり協議会事務局として「語り部部会」の立ち上げ・運営や、「けせんぬま震災伝承ネットワーク」にも携わる。
2021年4月に、気仙沼市東日本大震災遺構・伝承館の副館長に就任。

今回は、気仙沼市階上地区にある「気仙沼市東日本大震災遺構・伝承館[公式サイト]」の体験交流ホールの一角をお借りし、インタビューを実施しました。

気仙沼で生まれ育つ

 熊谷さんは、生まれも育ちも気仙沼ですか?

熊谷さん) そうです。今いるのが「階上(はしかみ)」という地区なんですけど、隣の「面瀬(おもせ)」に実家があります。ここから、だいたい15分くらいですね。

 まさに地元でお仕事をされているんですね。学校もずっと気仙沼市内だったのでしょうか。

熊谷さん) はい。ちょうどこの場所にあった気仙沼向洋高校が私の母校なんです。卒業後も、階上地区の農協に就職したので、気仙沼の中でも、ほんとうにこの周辺の地域で過ごしてきました。

 そうだったのですね!
この地域で暮らす中で、東日本大震災以前に、津波のことは意識されていましたか?

熊谷さん) 私の実家は、どちらかというと山に近い方なので、津波に対する意識はそんなにありませんでした。
ただ、気仙沼向洋高校ラグビー部の恩師で、現在は語り部をしている羽賀先生という方がいるんですけど、その先生から津波の話を聞いたのが、ずっと頭に残っていましたね。

 ラグビーをされていたんですね!部活中に津波のお話を?

熊谷さん) はい。「ここには大きな津波が来た」「この場所は海抜1mしかなくてすごく危険な場所なんだよ」とか、あとは、なぜか「海の水が引いて、そこに魚がピチピチ跳ねていた」という話も覚えていますね。

  それは、1960年のチリ地震津波のことでしょうかね。部活の時間に自然にそういうお話をされるのは、すごいですね。

熊谷さん) そうですね。「お伊勢浜」の砂浜まで行って練習することもたまにあったので、その時に聞いたような気がします。

「気仙沼市東日本大震災遺構・伝承館」目の前の気仙沼市パークゴルフ場。震災前、熊谷さんたちがラグビーを練習したグラウンドがあった場所だ。

階上地区周辺の空撮(2020年8月撮影)。震災遺構となった気仙沼向洋高校と伝承館は写真中央、その左上に見える砂浜が「お伊勢浜」。

 

3.11当時のこと

 高校を卒業された後は、地元の農協に就職されたということ。震災の時は、農協でお仕事をされていたのですか?

熊谷さん) 2011年当時も農協に勤務していて、地震が起きた時は、気仙沼市立病院の近くにいました。初めは、そんなにすごい津波が来るとは思っていませんでしたが、一応、病院の後ろの気仙沼高校まで行ったんです。その場所からは津波は見えませんでしたが、周りの人の話で「津波で家が流された」という話を聞いて。2、3時間後に街に下りたら、以前とは全然違う景色になっていました。

熊谷さん) そこから1時間半くらいかけて、階上地区に歩いて帰ってきました。

 ご実家はすこし高いところにあると聞きましたが…

熊谷さん) その頃は実家を出て、階上小学校の脇にある借家で暮らしていたのですが、地震による大規模半壊という判定になりました。外壁が落ちてちょっと家が傾いたのですが、仮設住宅に入るまではそこにいました。

 震災後も農協で勤務されていたのですか?

熊谷さん) 震災後に、森林組合で働き始めました。初めの1年くらいは、がれきの作業をしていました。水産加工会社で腐った魚などをダンプに積んで処理する作業もしていました。

 

地域の過渡期に震災伝承に携わる

 私が熊谷さんに初めてお会いしたのは、「階上地区まちづくり協議会」事務局にいらっしゃった時でした。
森林組合からまちづくり協議会に移られたのは、何かきっかけがあったのですか?

熊谷さん) 実は、森林組合にいた時から、PTA副会長と兼務でまちづくり協議会の委員をしていたんです。震災から時間が経過して、復興への熱意が少しずつ薄れていっているような気がしていたのですが、そんな時に「まちづくり協議会に事務局を置く」という話が持ち上がり、自分から手を挙げました。

 それまでは、事務局は無かったのですか?

熊谷さん) ボランティアで事務局業務が行われていましたが、有給の仕事としては無かったんです。

 では初めての「事務局員」になられたんですね。仕事をする中で、特に印象に残っていることはありますか?

熊谷さん) この伝承館の建設もそうですし、被災した地域の復興工事や、防潮堤建設などのハード整備が進んだ時期でした。その一方で、まちづくり協議会で「語り部部会」を立ち上げたりもして、地域が大きく変化する中で、ハードからソフトに切り替わるタイミングに関わることができて、とても良い経験をさせていただきました。

 私も、杉ノ下地区で毎月11日に行われている定期語り部に、何度か伺ったことがあります。「語り部部会」の語り部さんが4~5人で順番に案内してくださったのですが、皆さんほんとうに熱心な方ばかりですよね。

熊谷さん) そうですね。「語り部部会」の語り部さんは、皆さん「伝えたい」「知ってほしい」という思いがすごく強く、熱い想いをお持ちの方ばかりで、まちづくり協議会としても、力を入れて取り組んできた活動なんです。

 「語り部部会」には、何人くらいの方が語り部として参加されているのですか?

熊谷さん) 20数名の語り部さんがいらっしゃって、その中でも特に積極的に活動されている方が14〜15人くらいですね。

 

次の世代へ引き継ぐために

 新たに「語り部をやりたい」という方はいますか?

熊谷さん) そこが課題ですね。気仙沼では、70代の語り部さんが多く、あとは地元の中高生が関わってくれているのですが、その間の40〜60代くらいの方にも関わっていただけると良いなと思います。

熊谷さん) あとは、地域の歴史にも詳しい70代以上の方々から、若い世代に引き継いでいけると良いなと思います。

 地域の中高校生たちは、どんな風に語り部取り組んでいるんですか?

熊谷さん) みんな一生懸命に取り組んでくれています。強いて言えば、高校生は、当時の記憶があるからか、自分の言葉で話そうするのですが、中学生の年代となると、自分の言葉で話すことが難しく、台本に頼りがちな場面もあります。年々、震災を知らない子どもたちは増えていくので、そこが難しいところかなと感じています。

地元の生徒が震災遺構の案内を行っている(2020年8月撮影)

熊谷さん) ただ、子どもたちからは「この地域の良さをもっと伝えたい」といった感想も聞くので、私たちも、伝え方を改めて考えないといけないなと。もしかしたら、自分たちが型にはめてしまっているのかな、と思うこともあります。

 昨年、視察でこの伝承館を訪れた時に「地域との連携」のお話を伺いました。私も石巻で伝承施設の運営に関わっているのですが、気仙沼のように地域の子どもたちが関わって、一緒に案内ができるのは、すごいことだと思います。

熊谷さん) そういう取り組みが広がれば、災害や次世代への伝承を自分事として考えられる子どもたちが増えていくのかなと思います。

 そうですね。誰もが「次世代に」とは言うのですが、それをどうやって実現するかが課題ですよね。経験のある方に「語り部として話してみませんか?」とお声掛けするのと違い、今の中高生とどうつながって、一緒に取り組んでいくか。気仙沼の事例を参考に、他の地域でも広がっていくと良いですよね。

 先ほど、70代以上と中高生の中間の年代の方にも参画してもらうことが課題、というお話がありましたが、その打開策というか、何か取り組まれていることはありますか?

熊谷さん) 「けせんぬま震災伝承ネットワーク」という組織があるのですが、そこで人材育成のプログラムに取り組んでいこう、という話があります。まだ具体的にはなっていませんが、語り部さん含めみんなで考えて、提案していこうと思っています。

 

地域への恩返し

 改めての質問なのですが、熊谷さんがこの地域で活動しているエネルギーは、どこから湧いてきているのでしょうか?

熊谷さん) 最初に農協に就職したことが大きかったと思います。私には、地域の人に大人にしてもらったという実感があって、地域に恩返ししたいという思いがあります。

 震災の前からずっと、熊谷さんにとってここは「育ててくれた地域」なんですね。

熊谷さん) そうですね。

 私の中では、熊谷さんは語り部さんのサポートをされている印象があるのですが、ご自身でそうした思いを発信する機会はありますか?

熊谷さん) 毎月11日の語り部活動や、中高生の語り部の際、人数が足りない時、語り部としてお話しすることもあります。そういう時は、お客さんに「なぜ語り部をやっているのか」という思いを乗せてお話をしています。

 熊谷さんは今30代ですよね。先程の話で言うと、ちょうど間の世代。中高生の子たちがにとっても、刺激になっているんじゃないかと思いました。

 

つながり合うことの意義

 熊谷さんは、まちづくり協議会は退職されて、今年の4月からは伝承館の副館長に就任されたのですよね。

熊谷さん) はい。まちづくり協議会は退職しましたが、「語り部部会」の事務局は継続しながら、伝承館で働き始めました。

 引き続き「語り部部会」は担当されているのですね。それは皆さん安心ですね。
伝承館のお仕事はいかがですか?

熊谷さん) 来て4ヶ月ほどなので、まだまだ見えてない部分があると思いますが、やりがいの大きい仕事です。8月は夏休みということで、色々なイベントを予定しています。コロナ禍で状況を見ながら、対策しながらということが前提ですが、関心を持って、気仙沼に来ていただくきっかけになればと思い企画しました。

いただいたチラシをじっくり拝見。

夏休み特別イベント開催のお知らせ(伝承館HP)

 先ほど「けせんぬま震災伝承ネットワーク」のお話もしていただきましたが、このチラシを見ても”コラボ企画”がたくさんあって、いろんな方とつながって運営されていることがわかります。

熊谷さん) 伝承館に来られるお客様にお話を聞くと、気仙沼や東北のいろんな伝承施設を回って来られる方もいます。石巻に県の伝承施設ができましたが、あの場所で「こういう活動や施設があります」と情報を発信してもらったり、伝承に関わっている人たちが、それぞれの場所でお互いに発信し合って、みんながゲートウェイになれたら良いなと思います。

 その考え方は素敵ですね。

熊谷さん) 実は、「みんながゲートウェイ」というのは、うちの館長が言っていたことなんですけどね(笑)
根本は一緒でも、その場所によって、プロセスや伝えていることは違うので、いろんな場所を見て、いろんな方のお話を聞いて、感じてもらえればと良いなと思います。他の地域のことを紹介できるように、自分ももっと勉強していかないといけないな、と。

 確かに、お客様にとっては一生に一回の気仙沼訪問かもしれないですし、後から「ここも寄ればよかった」とならないように、私たちも常に勉強しなきゃですよね。

熊谷さん、今日はありがとうございました!

 

インタビュー後記

現在、準備中です。公開まで、今しばらくお待ちください。

「気仙沼市東日本大震災遺構・伝承館」の前で。 ※屋外で写真を撮る時のみマスクを外しています。

 

インタビューアー / 藤間 千尋(ふじま ちひろ)

3.11メモリアルネットワーク 事務局員(2021年6月に共同代表を退任しました)。
神奈川県横浜市出身で、3.11当時は海から約100mのみなとみらいの職場で仕事をしていた。
2011年のGWにボランティアで石巻市に来たことをきっかけに、同年10月に移住し、その後仕事で語り部プログラムの調整担当に。
趣味は読書、ドキュメンタリー映画やEテレの番組を観ること。

前回のインタビューはこちら

第10回 新妻香織さん(福島県相馬市)