【第6回】”津波太郎”と呼ばれる地で 検証〜記録〜発信

「会員インタビュー」連載第6回目のゲストは、岩手県宮古市の大棒秀一さんです。
大棒さんは、NPO法人津波太郎の理事長として、東日本大震災の津波で甚大な被害を受けた田老地区で、防災や震災伝承、まちづくりに取り組まれています。
今回のインタビューでは、震災前のお仕事、震災後の故郷での活動、台風19号の被災や新たな拠点のことなど、いろいろなお話を伺いました。

なお、今回も、新型コロナウイルス感染対策でマスクを着用してインタビューを実施しています。ご理解のほど、よろしくお願いいたします。

《この記事は約7分で読めます。》

大棒 秀一(だいぼう しゅういち)

岩手県宮古市出身・在住
東日本大震災当時は東京で仕事をしていたが、震災を機に故郷に戻る。2011年10月、田老(たろう)の復興支援を目的に「NPO法人立ち上がるぞ!宮古市田老」を設立、その後「津波太郎」に改称し、防災・減災やまちづくりの活動を続けている。

東京で3.11を迎える

 大棒さんは生まれも育ちも田老地区なんですよね。ずっと宮古で暮らしてこられたのでしょうか?

大棒さん) いえ、高校卒業後は東京に出て、診療放射線技師の仕事をしていました。

 そうだったんですか!

大棒さん) 5か所くらい転勤しましたが、印象深かったのは1999年の茨城県東海村JCO臨界事故です。放射線災害ということで、病院で被ばくした方の対応をしました。また、近辺の住民の方が放射線被ばくを心配していると聞き、ボランティアに出かけ、放射線サーベイをしました。後に臨界事故が発災した9月30日を「放射線災害の日」に定め、毎年、東京立川にある災害医療センターで放射線サーベイ、除染などの訓練を行って、原子力災害へ備えているんです。

大棒さん) 東日本大震災の発災した2011年3月に、東京の災害医療センターで定年を迎えました。

 では、3.11は田老にはいらっしゃらなかったんですね。

大棒さん) はい、東京にいました。日比谷公園の近くで会議をしていて、退職の挨拶をしようと思っていたんですが、会議の途中で地震があって挨拶もなく解散となりました。
4月6日だったかな。宮古で暮らしていたお袋が避難所にいると聞いて、戻ってきました。

 宮古には車で戻られたんですか?

大棒さん) 電車はどこも止まっていたので、車で来ました。関東からすぐに来るのは難しかったのですが、道が通れるようになったので、ガソリンを手に入れて、帰ってくることができました。

 その後はずっとこちらで暮らされているんですか?

大棒さん) 住所はまだ東京なんです。女房には「津波の来る場所にはいけません」と言われてしまいました(笑)

 行ったり来たりしながら活動されているんですね。

大棒さん) 最近はコロナの影響で、行ったり来たりできなくなりましたけどね。

 

津波防災教育の記憶

 東京でお仕事をされるなかで、今の活動につながる原体験のようなものがあったのでしょうか?

大棒さん) 先ほどお話しした東海村JCO事故のボランティア活動、災害医療センターでのDMAT活動などもつながっていますが、それよりも田老の地に生まれついたこと、昭和三陸津波後の避難訓練が大きな原体験だったと思います。
昭和三陸津波は1933年3月3日、夜中の2時半に大きな地震があって、3時ごろに10mの津波が襲った…私が生まれる20年くらい前の出来事ですけれどね。それで、田老では避難訓練が行われてきました。私の小さい頃には、津波が来たのと同じ日・時間にやっていたんですよ。

 夜中に避難訓練ですか!

大棒さん) 当時は深夜の寒いなか避難訓練をして、長老の方が焚火をして避難場所で待っているんだよね。その火を囲みながらぽつぽつと「昭和の津波はね…」と教えを話してくれたんです。それが防災教育だったんですよね。今はやっていないですけど。

 すごく興味深いです。

大棒さん) 小さい頃の記憶はあまりないんですが、そのことだけは覚えているんです。真夜中に何かがあったときにすぐ逃げられるように、「靴をそろえて、着るものはたたんで枕元に置いて寝なさい」と教えられていたこととか。

 私は関東の出身なのですが、「富士山はいつ爆発するか分からない」ということをよく言われていて、やはり枕元に靴と洋服を用意して寝ていましたね。中学生くらいにはもうやらなくなってしまいましたが、久しぶりに思い出しました。

大棒さん) あとは、黙々と逃げる人もいると思うのですが、「避難するときは『津波が来るぞ!』と大声を出して逃げなさい」というのも言われてましたね。そういう積み重ねが、今の活動につながっているのかなと思います。「三つ子の魂百まで」というか、田老のDNAですね。

 

「なぜ181人も犠牲になったのか?」

 田老で団体を立ち上げられたのは、いつ頃のことですか?

大棒さん) 壊滅的な被害を受けて、少しでも町の復興の役に立てればと思い、2011年7月に「立ち上がるぞ!宮古市田老」というNPOを見据えた団体を立ち上げました。

 どんな活動をされていたのでしょうか?

大棒さん) 田老の津波被災について検証をしました。田老は2003年から「津波防災の町宣言」を掲げているんですが、そんな町が、どうして181人もの犠牲を出したのか?という疑問があって、そのことを検証してみようと。

大棒さん) 報道では「大きな堤防があるから逃げなかった」と言われたりもしましたが、気象庁が最初に発表した「3mの津波がくる」という放送の後、防災行政無線が途絶えていたんです。南三陸町の遠藤未希さんのような魂の避難呼びかけがあったら181人もの犠牲者は出なかったと思います。

 そうだったんですか。私の住んでいる石巻では、最初「3m」と発表があって、そこから「6m」「10m」…と、どんどん大きくなっていったという証言を聞いたことがあります。

大棒さん) 田老では、1960年のチリ地震津波が3mで、当時ほとんど影響がなかったんです。だから、「3mなら大丈夫」と思い、堤防に津波を見に行った人もいるんです。

 そういう証言を調べられたのですね。

大棒さん) はい。その検証の結果をもとに、提言をまとめました。

【提言】

私たち田老住民は、今回の震災で、10メートルの二重の防潮堤がありながら、多くの犠牲者を出したことを教訓に、国や地方行政はもとより、国内外の研究者にも、以下のことを迅速に達成されるようにお願いをするものです。
 
1. 沖合水圧計及び潮位等に基づく津波警報技術を促進し、津波予測技術の精度を、市民の安全確保ができるまで向上させ、行政による津波警報の信頼を高め、発表される情報が、過小、過大とならないよう正確な情報を迅速に市民に伝えるようにして下さい。
 
2. 万全と思われる設備を持ってしても災害時には、通信・連絡方法の手段が途絶えることが、今回の震災で顕著になりました。行政は、考えうる全ての事象においてリスクマネージメントを行い、投資した設備・計画におごることなく、全ては無に帰することを念頭に防災マニュアルの整備や防災訓練、それを指揮する民間人及び行政職員の人材育成に絶え間なく取り組んで下さい。

大棒さん) 田老は、明治・昭和の津波の資料は多いんです。それも含めて、どのように津波防災に備えるようになったか、復興の変遷を踏まえながら伝えていきたいと思っています。

 

田老の地で津波を伝える

 2017年には、団体名を「津波太郎」に変更されたんですね。

大棒さん) はい。何度も津波が来るようなところに住み、津波のたびに壊滅的な被害を被ってきた田老の地を揶揄する「津波太郎」という言葉があるんです。その一方で、田老は、昭和の津波なども正面から捉えて、この地で生きるための術を共有し、津波防災・減災に取り組んできた歴史もあります。

大棒さん) 2017年頃には高台に新しい住宅が立ち並ぶようになり、「今後は津波防災・減災教育の活動が重要だ」「この地に生まれ育った者として津波防災を伝えていく使命がある」と考えました。そこで、あえて田老を揶揄した「津波太郎」という名前にして、世界の津波防災・減災、風化防止に寄与したいという思いがあります。

 大棒さんが活動の中で大事にしている、核のようなものはありますか?

大棒さん) 亡くなった人と話すことはできませんが、彼らの立場になって津波防災を考えたいという思いはあります。「こういう思いだろうな」と考えを巡らせています。そして、そのことを防災・減災にどうつなげるか考えていかないといけないですね。
3.11では田老で平均16.4mの津波が押し寄せ、現在14.7mの堤防が建設されていますが、日本海溝・千島海溝巨大地震が起きたら、宮古ではそれを越える29.4mの津波が来ると言われています。我々は、「その時どうするのか」考え、備えていかなくてはいけません。あわせて、津波予測精度の向上を図り、信頼できる津波警報によって避難、避難先を決める社会を目指しています。

 過去の災害に学び、備える。

大棒さん) 田老は過去の津波被害から、今のJアラートの元になった警報システムが生まれた地ですが、3.11では181人もの犠牲が出てしまいました。まちづくりにおける防災・減災政策は、市町村合併などによって優先順位が変わってしまうこともあります。しっかり検証して、伝えていくことが、津波防災・減災に寄与すると思っています。

 

津波被害と台風被害

 ところで、ここ(※大棒さんの事務所。田老地区の小高い場所にある)は3.11の津波の時は大丈夫でしたか?

大棒さん) 津波の時には、この少し下まで水がきました。避難場所になっていて、低い地域に住んでいた方が避難してきたのですが、この先は行き止まりなんです。津波もですが、避難してから火も迫ってきて、困って山越えしたという人がいると聞いています。

 この山が燃えたんですか?今では緑が生い茂っていて想像がつきません。

大棒さん) 山は燃えましたが、この住宅地の一番高い場所に住んでいる90歳くらいの元消防団の方が家に火が燃え移らないように誘導して、火災を免れたそうです。

 すごい!

大棒さん) その方がいなかったら、家なども燃えていたのではないかと言われています。山には大きな木もあったのですが、みんな燃えてしまって、山火事から9年経った木の根の張りは、2019年の台風19号の土砂崩れを食い止めることができず、ゴロゴロ流れてしまいました。

 木は地中に出ている部分が切られても、根は10年残り土地を保全してくれると言われていますが、台風19号は3.11から8、9年という時期でしたものね。

大棒さん) いろんな教訓があります。

 

津波防災の聖地「田老」伝承館

 台風19号では、岩手でも大きな被害がありましたよね。大棒さんの元のご自宅兼事務所も被災されたと聞いて、驚きました。

大棒さん) そうですね。それで、24時間テレビのチャリティー委員会様からこのユニットハウス(伝承館)と倉庫を寄贈していただき、とても助かりました。

 どのような経緯で寄贈されたのですか?

大棒さん) 「台風19号で被災して行くところがない」と相談したところ、岩手連携復興センターさんが24時間テレビ震災復興支援センターへつないでくださり、ご支援いただけることになりました。

2020年7月1日、24時間テレビチャリティーよりプレハブ1棟と倉庫、発電機が寄贈された。

室内には、パネルや資料が並ぶ。

大棒さん) 7月1日に贈呈式があって、寄贈していただいたユニットハウスには「津波防災の聖地『田老』伝承館」と名付けました。私たちは津波防災・減災、風化防止、田老の「まちのこし」を目的に活動をしているので、「伝承館」はまさにその目的に沿っていたんです。

 展示物を作るのも大変だったと思います。

大棒さん)これまでの田老の明治〜昭和〜東日本大震災の津波、という流れの中で何を伝えていくべきか、考えて作りました。
東日本大震災から10年目を迎える前に、チャリティー委員会様からこういう施設をいただいたので、伝承活動で恩返ししたいと思っています。

 

記録、発信のあり方を模索

 今は、新型コロナの影響で、なかなかお客さんも訪れることができない状況ですが、これからの時代、コロナを無視した活動できないと思います。

大棒さん) 室内での密を避ける、換気を行うなどの工夫は必要ですよね。伝承館前の空き地を利用した野外学習会などは、取り組みたいと思っています。

 「コロナが怖くて避難所に行けない」と思う方もいますよね。私たちも、「命を守るためにまず逃げる」と伝えていますが、その先の生活についても、何か指針になるようなものを伝えられたらと思っています。

大棒さん) これからも大きな津波は来るので、しっかり伝承活動をしていく。その一方で、時代に合わせた伝承の仕方を考えていかなければいけないですよね。3.11メモリアルネットワークさんとしても、その方法を考えていけると良いですよね。

 震災から10年ということで、特別な活動を考えていらっしゃいますか?

大棒さん) 記録誌を作ろうと思っています。3年目、6年目でも作っているのですが、10年でも、市民の目線に立った記録誌を作りたいと思っています。
それから、10年目に向けて県と市に要望書を出しています。今は防潮堤に上がって案内が出来ているのですが、新しくできる防潮堤上にも海が見える遊歩道を整備することと、3月11日に新防潮堤上で追悼を行うための配慮をしてもらえるように要望中です。

 3.11メモリアルネットワークに期待することはありますか?

大棒さん) 3.11メモリアルネットワークさんには、看板プロジェクトで田老に看板を設置してもらい、とてもお世話になりました。ツアー形式で各地の看板を回るなど、連携の核になってもらえると良いなと思います。
あとは、震災から10年を迎えるにあたり、ネットワークを活かし「東日本大震災から10年、各地の声」のメモリアル誌発刊を期待しています。

2019年2月「各地に伝承看板設置プロジェクト」の第1号となる看板を設置した。プロジェクトリーダーの黒澤さんと記念撮影。

大棒さん) 阪神・淡路大震災後に「ボランティア活動」という概念が日本に芽生えたように、東日本大震災でも同じように概念で発信できるように、リードしていただきたいと思います。

 

インタビュー後記

3.11メモリアルネットワークが発足した次の年(2018年)、私は、お会いしたことのない岩手・宮城・福島の会員さんを訪ねていた時期がありました。その中で初めて田老町を訪れ、大棒さんにご案内していただいたことがあります。

その時のことを思い出して、今回、会員インタビューのお願いを出させていただいたのですが、お返事の内容に驚きました。メールには、昨年の台風19号で法人事務所も兼ねたご自宅が全壊になったと書かれていたんです。

お世話になった方が被災していたことも知らず、しかも会員インタビューを口実に「久しぶりに大棒さんにお会いできる!」と、呑気に考えていた私は、申し訳のない思いでいっぱいになりました。

それなのに「24時間テレビのチャリティーで伝承館として利用できるプレハブを7月上旬に寄贈されたばかりだからとてもタイミングがいい!(インタビュー依頼の連絡は7月末)」と言って喜んでくださり、私達も少し救われました。

そして、8月上旬、晴れたとても気持ちのいい日に田老に伺って、久しぶりに大棒さんにお会いし、いろいろなお話をお聞きすることができました。
子どもの頃に経験した夜中の避難訓練のこと、放射線技師として携わった東海村JOC臨界事故のこと、そして田老は「津波防災都市宣言」までしていたのにもかかわらず多くの犠牲者が出たこと、それに疑問を持ち自ら検証を行ったこと。そして、伝承への想いを伺いました。

最後に、3.11メモリアルネットワークへの期待も語ってくださいました。”メモリアル誌発刊”は、すぐには難しいかもしれませんが、この会員インタビューを地道に続けながら、まずは各地の会員さんの取り組みを紹介していきたいと思っています。

インタビューの後は、雄大な山王岩へ案内までしてくださいました。
近くには「津波石」とよばれる、今回の震災で位置を変えた巨大な岩もあり、改めて津波の力を思い知りました。

そして昼食には名物「どんこ丼」(「どんこ」は深海魚ですよ)をいただいたんです。

フワッフワで、とっても美味しかったので、田老に行かれる際はぜひ!

最後に、大棒さんが教えてくださった「津波防災都市宣言(2003年)」の内容が気になり調べてみました。
全文を掲載すると長くなるため控えますが、一部だけご紹介いたします。

「私たちは、津波災害で得た多くの教訓を常に心に持ち続け、津波災害の歴史を忘れず、近代的な設備におごることなく、文明と共に移り変わる災害への対処と地域防災力の向上に努め、積み重ねた英知を次の世代へと手渡していきます」

※屋外で写真を撮る時のみマスクを外しています。

大棒さん、今回も多くの学びをいただき、ありがとうございました!

次回もお楽しみに!

 

インタビューアー / 藤間 千尋(ふじま ちひろ)

3.11メモリアルネットワーク 共同代表。
神奈川県横浜市出身で、3.11当時は海から約100mのみなとみらいの職場で仕事をしていた。
2011年のGWにボランティアで石巻市に来たことをきっかけに、同年10月に移住し、その後仕事で語り部プログラムの調整担当に。
趣味は読書、ドキュメンタリー映画やEテレの番組を観ること。

次回のインタビューはこちら

第7回 清野巽さん(福島県福島市)

前回のインタビューはこちら

第5回 若生彩さん(宮城県仙台市)